「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

【SPAIAインタビュー:第5回】

元スキーノルディック複合選手 荻原次晴 ~兄の背中を追いかけて見つけた自分の道

スキー

このエントリーをはてなブックマークに追加

© 2017 SPAIA

1998年長野五輪のスキー・ノルディック複合で個人6位入賞を果たし、現在はスポーツキャスターとして活躍する荻原次晴さん。

92年アルベールビル、94年リレハンメル五輪金メダリストで「キング・オブ・スキー」と呼ばれた荻原健司さんは双子の兄。かつては有名な兄を持つがゆえの苦悩を味わい、しかし、だからこそ自身もオリンピックにたどり着けた。そんな現役時代の紆余曲折をユーモアたっぷりに語っていただきました。

【ゲスト】

元スキーノルディック複合選手

スポーツキャスター

荻原次晴

1969年12月20日生まれ。群馬県草津町出身。小学5年生からスキージャンプを始め、大学時代に全日本強化指定選手となりナショナルチーム入りした。大学卒業後、北野建設に入社。

1994年全日本選手権で3位となり、その後ノルディック複合でワールドカップに初出場。世界選手権の団体戦で金メダルを獲得した。1998年に長野オリンピック出場。個人(6位)、団体(5位)ともに入賞。同年現役を引退。

引退後はスポーツキャスターとして活躍しながら、次晴『登山部』を発足し日本百名山登頂を目指すなど幅広く活動している。

■自分の存在を知ってもらうために、五輪へ

――現役時代で一番印象に残っているのはどのようなことでしょうか?

荻原:やはり僕の人生のターニングポイントになった1998年の長野五輪ですね。ずっとオリンピック出場を夢見ていて、それがかなった大会でしたから。そもそも僕がなぜオリンピックを目指したかというと、双子の兄の健司だけでなく、弟の次晴もいるんだと、その存在を知ってもらいたい思いがあったからです。

――そうなんですか。

荻原:ええ。1992年のアルベールビル五輪で健司が金メダルを獲り、一躍時の人になって顔と名前が世間に知れ渡ると、僕は健司に間違われる生活が始まりました。当時は双子で、顔のそっくりな弟がいるということは知られていませんでしたから、僕がこの顔で正直に「健司じゃありません。双子の弟の次晴です」と言っても、誰も信じてくれませんでした。「だから申し訳ないけどサインはできない」と断ると、急に手のひらを返されて、「有名になったからって調子に乗るな」なんて言われたこともあります。

子供の頃から近所のおばちゃんに間違えられるなんて日常茶飯事でしたから、仕方がないと思って受け入れようとしたものの、さすがに健司フィーバーが長く続いて、いろいろな人に悔しい言葉を投げかけられ続けているうちに、堪忍袋の緒が切れてしまいました。こうなったら自分も何かの方法で有名になって、健司もいれば次晴という人間もいるんだ、僕はウソをついているわけじゃないと、みんなに知ってもらおうと思い立ちました。

そのためにどうしたらいいだろうと考えたあげく、最終的には健司が一番注目される舞台、つまりオリンピックに僕も出場し、健司と競い合って、日本中の皆さんに荻原は本当に双子だと知ってもらおう。その思いひとつでオリンピックを目指しました。

――同じ道に進めば、比較されたり、さらに悔しい思いをすることも多いと思うのですが、他の選択肢は頭にはありませんでしたか?

荻原:他の道も考えてみましたよ。アルベールビル五輪の時は大学4年だったのですが、その頃の僕は憧れのキャンパスライフを満喫して遊んでばかりで、スキーの成績は落ちてしまっていました。当時はクラブDJにのめり込んでいて、将来的にはそういう職業で飯を食えればいいとも夢見ていました。健司が有名になったことによって、じゃあ僕もクラブDJとして名を馳せてやるか、という気持ちもあったんですが、それで全国のお茶の間の皆さんに知ってもらえるかといったら難しい。

あとはジャニーズの光GENJIの皆さんが器用にバック転をやったりローラースケートで踊っている姿を見て、「ジャニーズに入ったら有名になれるかもしれない」と思ったりもしました。子供の頃に体操教室に通っていたこともあって宙返りができましたから。でも自分の容姿を鏡に映した時、このパッチリ一重まぶたじゃ無理だなと思って諦めましたけどね(笑)。

いろいろ考えたあげく、やはり、ずっとやってきたスキーをもう一度やり直すのが近道だろうと思いました。健司がスキーで有名になったわけですから、一緒に顔と名前を覚えてもらうためには、同じようにオリンピックに出ることが一番じゃないか。最終的にはそう決断しました。

――そもそも双子のお二人が同じ競技を始められたのは自然な流れだったのでしょうか。

荻原:ごく自然でしたね。同じ腹から生まれてきて、同じ服を着せられて、同じように遊んで3歳からスキーを始めました。小学5年の時に僕がスキージャンプを始めて、少し遅れて健司がついてきた。ジャンプやノルディック複合を始めた頃は、実は僕の方が成績がよかったんです。その前を振り返っても、遊びでも、逆上がりでも、体操教室の宙返りでも、僕がなんでも先にできてしまいました。健司はすぐにはできず、コツコツやって、どうにかできるようになるタイプでした。自分で言うのもなんですが、僕は健司よりセンスがよかった分、何でも簡単にできたけど飽きっぽい性格で何でも簡単に諦めてしまった。

僕らが所属していた早稲田大学のスキー部は、自分で考えてトレーニングしろ、という雰囲気だったので、さぼるのは簡単でした。ランニングの時間に僕だけ公園のベンチで寝てすごしたり。DJをやっていたので頭の中は音楽のことでいっぱいでした。あの曲と、この曲はうまくつながるんじゃないかとか、そろそろ渋谷のお店に新譜が並んでいるはずだとか、そんなことばかり考えていましたね。それはそれで楽しかったですけど、今振り返って、あの学生時代、健司とともに真面目にやっていたら、また違った人生がひらけていたかもしれないと思うことはあります。ただ、遊ばなきゃよかったなとは思わないし、後悔はしていません。

荻原次晴

© 2017 SPAIA

 

荻原:僕がそんな状態でも、健司からは「お前、もっと真面目にやったらどうだ」とか「一緒に頑張ろうぜ」といった言葉はひと言もありませんでした。海外遠征前には僕の部屋に来て、「来週からまたヨーロッパに行くから、その間に聴けるようにミックステープ作っといて」なんて、よく頼まれました。スキーの方はオレに任せろ、趣味は次晴に頼む、みたいな気持ちがあったのかもしれません。

僕のほうも、真面目にスキーをやるのは健司の担当で、僕はその分も遊ぼうかな、と(笑)。同時に、健司が真面目にトレーニングや寮生活をしている姿を見ながら、「つまんねー男だな」とも感じました。人生に一度しかないキャンパスライフなのに、と。でも4年の時、先ほどお話したようにアルベールビル五輪で健司が金メダルを獲りました。しかも、僕は4年で卒業できなくて、留年してしまったんです。健司に人違いされる生活に我慢ができなくなり、大学5年の夏に、スキーに本気になったというか、重い腰を上げた感じですね。

■「メダルを獲りたいと思ったことはなかった」

――そのアルベールビル五輪から6年後、念願の長野五輪出場を果たされました。

荻原:正式に連絡をもらったのはオリンピックの1ヶ月前でした。そのシーズン、僕は調子が悪くて、いわゆる代表の二軍に落ちていました。ワールドカップの下のランクのコンチネンタルカップという大会を回って、なんとかポイントを稼ぎ、最後の最後にギリギリ選んでもらった状況だったんです。

――ギリギリの滑り込みから五輪本番では入賞されたんですね。

荻原:僕の中では本当に映画のハッピーエンドのような結末になりました。選ばれた当初はまさか入賞なんて考えもしませんでした。ワールドカップとコンチネンタルカップは全くレベルが違いますから。とにかくオリンピックまでの期間、トレーニングするしかないと取り組んだら、あれよあれよと長野五輪本番のジャンプでは3位になっていたんです。

これは予想以上の結果でした。オリンピック当日は本当に体が震え上がるほど緊張していたんですよ。普段の大会はジャンプ台のスタート地点から客席を見渡しても真っ白い銀世界が広がっているだけなのに、長野五輪の時だけは、3万人の人だかりで真っ黒でした。選手が飛ぶたびにウワッ!という空気圧がスタート地点にまでブワーッと押し寄せてきて、自分の順番が近づいてくるにつれて怖くてたまらなくなりました。

でも、ここまで来たんだから、もう何も恐れるものはない。しかも調子が悪いんだから、いいジャンプができるわけがない。だから、もう頭から落ちて死んでもいい。そこまで覚悟したんです。本気で、消えちゃってもいいと。もう思い切り頭から突っ込んでテイクオフしてみろよと自分に言い聞かせ、ジャンプを2回跳んだら、ピューッと遠くまで飛んじゃって、健司より飛距離が出て3位に入っていました。
スキージャンプというのは、空に飛び出してしまったら、もう立て直すことはできない。たぶん、あの一瞬にかけた集中力がすごかったんだろうなと思いますね。

――そして競技後半のクロスカントリーでは、健司さんとデッドヒートを繰り広げながらゴールするシーンが印象的でした。

荻原:結果的に僕が6位入賞、健司が4位。メダルは獲れなかったけど、ものすごいシンデレラストーリーですね。あまりにもうまくできすぎた話で、今振り返っても鳥肌が立ちます。僕はオリンピックのメダルを獲りたいと一度も思ったことがないんですよ。僕の目的のすべては、健司と並んでオリンピックに出場し、そこでまさに双子が競い合う姿を日本中の皆さんに見ていただくことでした。とにかく、荻原次晴の存在も知ってもらいたいという気持ち一つでしたから。

クロスカントリーをスタートした最初は、僕の姿を見て「健司ー!」と呼ぶ声がすごく多かったのに、レース中、健司とともに競うようになってからは、「健司!」「次晴!」という声援をいただきました。あまりにも苦しいレースで、ゴールラインを切った直後、僕ら2人は雪上に倒れこんでしまったんですが、その時に「健司!次晴!おめでとう!」とたくさんの祝福の声をいただきました。それらが聞こえてきた瞬間、「僕がやりたかったことはすべてできたな。これでスキーの競技人生に終止符を打とう」と決めました。オリンピックを機に、そろそろ双子の兄弟は別の道を歩んでいくべきだと思っていましたからね。当時28歳で、もう健司は健司、次晴は次晴の個人商店を立ち上げて生きていかなきゃいけないかな、と。

荻原次晴

© 2017 SPAIA

 

――「メダルを獲りたいと思ったことがない」とおっしゃいましたが、健司さんに勝ちたいという思いはなかったですか?

荻原:なかったですね。なぜでしょうかね。それは、長男として育った健司と、次男として甘やかされて育った次晴の違いなのかもしれません。健司はコツコツと、一等賞になるまでやる。でも僕は一等賞にならなくてもいいというか、一番になりたいと思ったことがまったくなかったし、健司に勝ちたい気持ちもなかったんです。双子ですから、同等で並べればいいかな、という程度でした。

――双子でも長男と次男の違いがあるのですね。

荻原:そうですね。うちはわりと古い考えの家庭でしたから、長男への期待みたいなものもあったと思います。例えば子供の頃、おもちゃの取り合いをしていると、決まって健司は「お前はお兄さんなんだから我慢しろ」と言われていました。僕は、だだをこねて泣いていればいつか欲しいものが手に入ると、子供ながらに感じていました。と同時に、じいちゃん、ばあちゃんからは長男の健司はすごく大事にされているな、僕はそうでもないなとも気づいていたんです。

■「苦しくても東京で10年は頑張ろう」

――引退後、スポーツキャスターの道を選ばれたのはどうしてですか?

荻原:引退直後は、何をやっていいかまったくわからなくて、すごく悩みました。そんな時に、「テレビを通してウィンタースポーツを伝えていく立場になったらどうだ」と言ってくださった方がいたんです。当時は、冬の競技の解説者はいましたが、日頃からテレビに出て伝える立場の方はいませんでした。だから、メディアを通じて冬のスポーツの魅力を知ってもらえればと思い、この仕事を選びました。

とはいえ最初はスポーツキャスターの仕事が全然なくて、バラエティ番組の出演などいろいろなことをやりました。他のタレントさんたちは、カメラの前でも物怖じすることなく、言葉がよどみなく出てきます。そうした皆さんとスタジオに並ぶと、自分のボキャブラリーのなさや、世の中を知らなすぎることを思い知り、カメラの前にいることが苦痛でした。

せっかくスポーツキャスターの仕事をいただいても、その時お伝えするスポーツは野球やサッカー、ゴルフ、相撲……。それまで他のスポーツには詳しくなくて、選手の顔もわからなかったので苦労しました。とにかく、取材にいく前にしっかりと予習をしたり、新聞をとって毎日片っ端から読むようにしました。 最初は大変だなと思うことばかりでしたけど、群馬の田舎から出てきて、「やっぱり東京ではダメだった」としっぽを巻いて帰ることほどカッコ悪いことはない。だから最低10年は頑張らなきゃダメだと思って踏ん張りました。

――大学時代にDJをされていたことは、今のお仕事に活きているのでは?

荻原:それはあるかもしれません。DJもどちらかというと目立ちたがり屋がやることでしょうからね。大学時代、音楽にのめり込んで健司に遅れを取ったというのはあるんですが、引退してこの世界に入ってきたあとに、ラジオの担当者の方から、「そういえば次晴君、音楽好きなんだよね。今度うちの局でラジオ番組やらないか?」というお話をいただいて、長く続けることができました。そこでは趣味がすごく活きましたね。なんだかんだ言って、結果的には1本の道でつながっているもんなんだな、趣味があってよかったなと思っています。

――最後に、荻原さんの今後の夢は何でしょうか?

荻原:来シーズンは韓国で平昌オリンピックが開催されますので、そこでのメインキャスターの座をつかみたいですね。長野五輪に出場して、その後の冬季五輪はすべてキャスターとして現地に取材に行くことができましたので、その流れを途切らせたくないですし、平昌でキャスターのポジションをつかむことが、2020年東京五輪にもいい流れでつながる気がしますので。

あとは、今まだ3人の子育て真っ最中なんですが、荻原家の親父として、しっかり子育てをするということですね。東京五輪は、家族総出で応援に行くというのを今からすごく楽しみにしています。

荻原次晴

© 2017 SPAIA


(取材・文: 米虫紀子 / 写真:近藤宏樹)

このエントリーをはてなブックマークに追加